直線上に配置
荒城の月へのこだわり

フレンドタウン17号(2001年6月)に掲載された記事です。


 最初にハーモニカを手にしたのは、年輩の多くの人と同じだと思いますが、小学校4年生の音楽の時間にハーモニカが教材として必要になったからでした。多分ミヤタ・バンドかトンボ・バンドの21穴Cメジャーの複音ハーモニカだったと思います。父親が、ハーモニカがうまかったらしく、ベースを入れて荒城の月を吹いてくれました。姉もベースを入れていました。私はハーモニカに向いていたらしく、すぐ真似をして荒城の月をベース入りで吹けるようになりました。同級生の中でも、ハーモニカに関しては群を抜いていたと思います。
 今になって思い返せば、なにしろメジャー・ハーモニカですから、なんのことはない、「荒城の月行進曲」みたいな吹き方だったと思われます。音楽の授業の方は、数回しかハーモニカを使用せず、皆、すぐ忘れてしまったようでしたが、私は中学の時もときどき思い出して「青い山脈行進曲」みたいなものを吹いていました.。
 ハーモニカを磨くのにあるとき紙やすりを使ったところ、真鍮の地肌が出て、金色に光り、これは素晴らしいと鍍金を全部剥がすほど磨きこみ、ピカピカにして喜んだこともありました。しかし、そうするとハーモニカを咥えたときに真鍮の味がするのですね。閉口しました。
 ハーモニカの箱に学生バンドの写真が印刷されていて、そんなバンドに加わりたいなとぼんやり考えていました。でも、中学、高校とそんなクラブは無く、東京の大学に入って寂しかったため、複音ハーモニカの楽譜集を古本屋で見つけ、複音C、C#、Amなどを買って下宿で吹いていました。ところが、学園祭でハーモニカトリオを見かけ、2年生になった時点でハーモニカ・ソサイアティに入部し長年のぼんやりした夢をかなえることができました。
 あるとき、故郷金沢の金城高校(当時)ハーモニカ・クラブの東京定期演奏会を聞きに行きました。それで故郷にもハーモニカ・バンドのある高校があったことに気付きましたが、女子高校ですから、どうせ入学は無理だったのです。その演奏は高校生ですから、クラシック曲が主体でした。合間に、指揮者の加藤先生が、「荒城の月」の複音ソロを演奏されました。なんと朗々とした素晴らしい演奏だろうと大感激して楽屋に訪ねて行き、楽譜を見せていただきました。
 すると、

3 3 6 7 | 1 7 6 - | 4 4 3 2 | 3 - ・ 0 |

という旋律が

5 5 1 2 | 3 2 1 - | 6 6 5 4 | 5 - ・ 0 |

と書かれています。
 これは、メジャーの吹き吸いの関係をそのままマイナーに持ちこんだ記法で、ラの音をドと思って楽譜どおりに吹いて行くと、ちゃんと「荒城の月」の旋律になります。借りた楽譜集には、加藤先生の父上の編曲で数曲がこの記法で書かれており、私はそれらを新しい大学ノートに書き写し、大学時代の残りにそれらを時々愛奏していました。
 この「荒城の月」の編曲のオリジナルは佐藤秀廊先生の編曲で、途中に1コーラス分、ベースだけで吹く大加藤先生の変奏部分が挿入されています。この変奏部も中々よいのです。そのころはまだ佐藤編曲を知らなかったので、私はこの編曲で長く吹いておりました。
 大学を卒業して1年後、昭和45年に、ハーモニカと離れているのが寂しくて、大手町の産経学園のハーモニカ教室に入園しました。そこの先生が佐藤秀廊先生その人で、他に故川上桂二郎先生、高弟の故林淑子さん、同じく故寺澤博義さんなどがいらっしゃいました。私がクロマチックを習いたいといったので、佐藤先生は、「自分はクロマチックができないけど、批評はできるから。」とおっしゃられたので、引き続き通いました。そのころドイツ留学から帰られた崎元先生を教室で一度紹介されたことがあります。多分崎元先生は覚えておいでではないでしょうが。
 昭和47年になると、私の会社で米国へ長期出張しないかという話が出てきました。そこで、佐藤先生に、渡米するにあたり、複音の曲を1曲だけ教えていただけないかと相談し、何がいいかというので、「荒城の月」を選びました。それからは富士見出版社の「佐藤秀廊独奏曲集」の「荒城の月」を数ヶ月間教室で習いました。一度、自宅に習いにいらっしゃいとのお誘いで、先生の自宅まで出かけていったことがあります。そこでは直接習いはしなかったけれど、「田園素描」、「行商人」、「太湖を行く」などを聞かせていただき、独奏集に載っているので渡米中に練習したりしました。「荒城の月」のバイオリン奏法の部分で、クロマチックの吹き方で吹いたところ、先生は、「フーン、クロマチックの人が吹くと違った吹き方になるんだねー。」と感心され、「ウン、君はその吹き方を続けなさい。」とおっしゃってくださいました。無理に型にはめない先生の指導方法は、今から振りかえるとバイオリンの名指導者のエピソードと重なるものがあり、見習うべきものだと思っています。
 渡米中、アメリカ人の家に招かれることがよくあり、何度か「荒城の月」を演奏しました。日本人仲間もしんみりと聞いておりました。帰国後、20年以上経ったあるとき、そのときの仲間から、「あのときは涙がでたんだぜ。」などと告白されたことがあります。
 さて、「荒城の月」の編曲には、それ以来、何度もお目にかかり、演奏もしてきました。ハーモニック・オムニバスの合奏曲、トリオ ハミングバードのジャズ編曲(鈴木章治の編曲に私の変奏部を付け加えたもの)、小山實先生の複音ソロ編曲、私が10ホールズ・ソロ用に編曲した2曲などです。これらが一同に会したのが、日本ハーモニカ芸術協会実験工房の「これでもか荒城の月」という企画でした。お客さんは、その日は「荒城の月」ばかり8曲ぐらい聞いたと思いますが、参加した生徒さんに聞くと、中々面白かったとの評判でした。
 自分で編曲していても、「荒城の月」というのは曲がいいせいか、どれもとても良い感じになるのです。名曲というのはそういうものなのかもしれません。
 会社のアフター・セブン・コンサートで知り合いになった野村俊明先生というギターの先生がいます。平成11年のギターの演奏会でハーモニカと合奏することになりました。曲の1曲は野村先生編曲の「荒城の月」です。野村先生の大塚にあるギターの練習場では、昔、佐藤秀廊先生がハーモニカの演奏会を開いたことがあったそうで、何か因縁めいたご縁を感じました。何でも野村先生の先生である石月先生と佐藤先生がよくギターとハーモニカの合奏をやっておられたのだとか。
 練習もちゃんとやり、本番もうまくいきましたが、野村先生、自分の編曲が満足できなかったようです。半年後位に電話がかかってきて、「満足できないので、いま音楽大の作曲科出身の若手作曲家に荒城の月の編曲を依頼した。また練習しよう。」というのです。若い作曲家は佐藤純人先生といいます。この先生はギターもハーモニカも専門ではないので、でき上がった編曲は、ハーモニカはまだしも、ギターにとってはとても難曲だったようです。若手だけあって、現代音楽といってよい程のとても現代風の編曲です。最初の演奏は、ギターのライブ演奏会でやりましたが、チョット盛り上がりに欠けるきらいがありました。そこで、野村先生、佐藤先生に「ハーモニカのソロ部分を追加してほしい。」と軽く頼み込みました。
 ところが若い佐藤先生というのは大変なこだわり屋さんでして、最初の編曲にも6ヶ月もかけたらしいのですが、それからは収入源であるアルバイトも止めてクロマチック・ソロ部分の編曲に専念することさらに4ヶ月、ようやくできあがったソロ部分は、こちらは14小節増える位に思っていたのに、なんと44小節もあり、総演奏時間は10分という大曲にし上がっていました。
 これを平成13年4月8日のクラシック・コンサートで初演するのに1ヶ月しかありません。野村先生と猛練習を重ねました。練習後に飲みながら佐藤先生に編曲の苦労を聞き出すと、なんとこの間5kgも体重が減ったとか。収入も減ったようだし、奥様に会わせる顔がないと野村先生共々恐縮しています。これだけ力を入れると最早編曲という程度を通り越しているので、演奏会では佐藤純人作曲「銀月に吹かれて 「荒城の月」をモチーフとしたギターとハーモニカのための」という曲名で発表しました。
 プログラムに、作曲者の解説文を載せて会場で配りましたが、現代音楽理論の難しい用語がたくさん出ていまして、あらためて大変な曲だなあと実感しています。
 このような大曲を1度しか使わないのはもったいないことなので、今後も何回か野村先生とのデュエットで演奏して行くつもりです。また、佐藤先生は次のハーモニカとギターのための作曲に取り組んでいます。今度は何kg痩せることやら心配です。
 小学校の「荒城の月行進曲」から始まって、ついに私個人のために「銀月に吹かれて…」の作曲までしていただいて、「荒城の月」へのこだわりも終着駅についたのかなと思っています。本当にハーモニカ冥利につきます。今後も研鑚を重ねて、フィーリングの表現方法を極めて私の代表曲の一つにして行きたいと思っております。またどこかで聴いていただく機会があると思います。その折はよろしくお願いいたします。


銀月に吹かれて「荒城の月をモティーフとしたギター、ハーモニカのための」("Blowin´In The Silver Moon "for guitar and harmonica)

佐藤純人

 これは、昨年の11月25日、田園都市腺長津田駅前にある音楽喫茶アルペジオにおいて、ハーモニカを真田正二氏、ギターを野村俊明氏によって初演いただいた新曲です。今回は、楽曲中間部の尻尾に新しく付け加えたハーモニカのソロ部分、を含む新規構成で演奏していただきます。
 この楽曲は、大きく分けて、イントロダクションからテーマ提示部、展開部からハーモニカのソロ、再現部よりコーダ、の3つの部分より成ります。中心調はハ短調です。3度関係を軸として、ひっきりなしに転調します。その際のドミナントには、なるたけリーディング・トーン(導音)を現出しないよう配慮しました。和音については、ハーフディミニッシュ・セブンス・コード(マイナー7th♭5コードの別名。減三和音に、根音から短7度の音を足した和音。短調のIIm7♭5、あるいは長調のV9の第一転回形の根音省略形に見ることができる。)を多用しました。この和音の3rd(和音の第3音)を省略してテンション11thを足した響きが個人的に好きなこともあり、結果、いたる所で使用しています。和音進行については、強進行と合わせて、バスが短3度上行するなど特殊な響きをかもし出すよう弱進行を多く用いました。さらに短3度連続上行や増4度進行等の変則的なプログレッションも採用しています。
 クラシカルな素材を以て(サンプリングして)、コンテンポラリー・ミュージックを書く(以前と違う価値を生む)にあたって、二つの言葉『両義性』(ある事柄が同時に相反する意味作用または価値を持つこと。)『カオスモス』(一方に秩序があり他方に無秩序があって両者が対立する、という構図が崩れてそれらが相互に浸透した状態を指す。by フェリックス・ガタリ)を強く意識しました。前述した個々の音楽的アイディアはこれを端に発想しています。題名については、「銀」は金属(metal=現代の象徴)であり、「月」は夢や狂気を連想していただくために使用しました。たくさんのピエロ(夢や狂気を孕んだ両義的存在)が、銀月の光に照らされて、大東京のビルとビルとの谷間を、静かに、危うげに、時に情熱をもって、闊歩するもしくは一本綱の上を渡る、そのような様子を思い浮かべて名づけました。
 ポップ・カルチャーが、サブ・カルチャー(青年文化)からドミナント・カルチャー(支配的文化)へと転じた今、僕がとれる(とりたい)態度を正直に表現したつもりです。どうぞお聞きください。
 最後に、この場をお借りして、作品を発表する機会を与えてくださった真田先生、野村先生の両氏に、敬意を込めてお礼申し上げます。

トップ・ページ・アイコン
トップページへもどる

お話へもどる

直線上に配置

©copy right 2001 Shoji Sanada, All rights reserved